昭和47年4月25日 朝の御理解        (末永信太郎)

御理解第3節
 天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。



 前半のところの、前々の巡り合わせで難を受けおる、というところまで、まあ、神様を神様と知らず、しかも、その天地金乃神様、天地の大恩恵の中にある、そのおかげも知らずに、天地の心に反した、言うなら検討違いの生き方。検討の生き方、そういう生き方ばかりして、そういうことが前々の巡り合わせとなって、氏子の上に難儀が起きておるのだということを教えておられるですね、前半。
 ここんところを大変教学的に、この御理解3節というのは、非常に大事にされるわけですけれどね。天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らずというところ辺りは、非常にあの、教学的に説明されておりますけれどもね。私はそこよりも、何よりも、只今申します大雑把にですね、その天地の大恩、天地の御恩徳ということを知らずにということは、天地の心を知らずにということだと思うですよね。
 天地の心を知らずに、その心に添うた生き方をせずに、その反対の生き方ばかりしておる。言うなら、天地の道理に合わない生き方ばかりしておる、検討違いな生き方ばかりしておる。その例えば代表的なものが、ここんところに日柄方位ばかり見てというなところがありますね。ね。
 例えば、天地の中に指一本でも押す、指一本押すだけでも、ね、天地金乃神様のお恵みでないところはないのである。もう、しかも、その天地を丸生かしに生かしてござる働きをしてござるのが、天地の神様、天地金乃神様である。それに、何ぞや、ね、日柄が良いの方位が良いの、方角が悪いのと言うて、日柄方位ばかり見てと、こう仰る。これは、日柄方位だけのことじゃないけれども、そういう検討違いな生き方をしておるということの、まあ、当時の日本人の、まあ、宗教思想とでも申しましょうかね。
 教祖様ご出現の時代の、いわゆる百十何年前辺りの一番、人間の生き方の中に、まあ、黒い影が宿しておったというのは、そういう生き方だったと思うですね。裁ち物をするでも日柄を見ないといけないとか、家を建てるなら、もう、やはりその、(かそう)が良うなからなければならないとか。ね。
 旅行をするのにも、ちゃっと日柄を見て行かなければならないとか。と言うて、その、天地に体するところの天地の神の心も知らずして、いわゆる、親神様の心も知らずして親神様の心とは反対の生き方ばかりしておるというのが、その当時の私どもの生き方、生活の上に大変な一つの(享有?)を持ってね、その、私どもの上に現れておられたのが、金神(有効?)説なんですね。ね。
 いわゆる、金神様という大変厳しい神様がおられて、ね、方角でも見らずに家を建てたりしたら、ね、または、それに類した、いわゆる事から大変な窮屈な生活をしておっただけではなくて、そのこと事態が、言うなら天地に体する無礼だ、と。ね。昨日、私が申しました、あの、こうしてはならん、ああしてはならんということは、金光様のご信心は全然ないて、私が申しましたですよね。
 ただならんのは、信心を止めてはならんということ。このこと一ヶ条一つだと、私は申しました。ね。それは、私どもがこの世に生を享けておる限り、人間としての人間の道をね、間違えてはならない。けれども、間違えたからと言うてです、人道を間違えたからと言うて、罰当てるというな神様じゃないということ。ね。だから、あれをしてはならん、これをしてはならん、といったようなことじゃない。
 そういうことが、前々のめぐりで難を受けおるといったような、難の元になっておるのじゃない、と。ね。そこんところを段々改まりに改まらせて頂いて、ね、だんだん良い生き方にならなければならないことは間違いない。けれどもね、一番の天地に対するご無礼はね、天地の中にあるその法則に従わないということ。ね。まあ、それを迷信と、こう言う。ね。
 そうでもないことを、そうだと信ずる。世の中には、もう迷信家ばかり。それは、百年前のことを、なら、今でもやはり、さあ、結婚すると言えば、黄道吉日を選ぶとか。ね、相性を見るとか、そういうことのあろう事の無いはずのことを、あるかのようにして、いわば検討違いの、本当のことが分からんから検討違いのことばかりをして、難儀をしておる。そういうことが、天地に対するところの機感に叶わん、ご無礼になる。ね。というようなこと。だから、日柄方位ばかり見て、無礼いたし。前々の巡り合わせで難を受けおるということは、だから、天地の親神様のお心が分かればね、ここんところは解消する問題なんだ。ね。
 だから、お道の信心させて頂いて、天地の道理が分からせて頂いたら、天地の道理に合うた生き方をさせてもらう。それは難しいことでない、見やすい、見やすいことである。天地の道理に合うた生き方をすることである。同時に、天地の今度は御恩徳というものを分からせてもらう。天地の大恩というものを分からせてもらう。そして、その大恩に報い奉るところの生活。言うなら、大恩に応え奉るところの生活。
 そこから、一切のものに感謝の心というものが出て来るわけですね。水を使わせて頂くでも、お野菜一本頂かせてもらうでも、ね、全てのことの中にそれを押し頂くという謙虚な姿勢が出けるわけなんです。天地の大恩が分かれば分かるほど、私どもの周囲にはお礼を申し上げなければならないことがいっぱいある。
 ね、そのお礼を申し上げるお礼の生活が出ける。だけではない、天地の道理が分かって、道理に合うた生き方をするようになる。そういう生き方が全然出けていなかったわけなんです。ね。そして、検討違いなことばかり、人間が幸せを願うということは、今の世も昔の世も同じことであった。誰でも幸せを願う。
 そこで、幸せになりたい、幸せになりたいと言うて、例えば、これはもう代表的なことですよ。ね。日柄方位を見たり、結婚をすると言やあ、んなら、黄道吉日を選んで幸せになりたいばかりに、そういうことをした訳なんです。ところが、そういうことは、天地の道理に合わないということです。
 だから、その天地の道理に合わないことをすることが、天地に対するところのご無礼になるから、そういうことが積もり積もって、人間の難儀の元というものは出けてるんだと教えておられるわけ。この辺んところをね、金光様のご信心をすんなら、明確にしとかんといかんです。金光様の信心しとってもね、ここんところがハッキリしとらんと、信心頂きながら天地に対するところの無礼ということになって来るのです。
 天地の心を分かる。天地の心を分かるということは、ね、天地の道理も分かるし、天地のお働き、いわゆる御恩徳ということも分かるということなんです。神の心が分かる、神の心を心としての生き方が出けるようになる。それは、だから、人道上にも段々添うて来ることになることは、間違いないです。ね。
 だから、もう一番大したご無礼の元を疎かにしておる。ね。それは人間が、ただ幸せになりたい、幸せになりたいと言うのでです、家を建てるのにはやはり、(かそう)を見て、(かそう)に合うた家を建てるという生き方は、幸せになりたいというばっかりなんです。
 そりゃあ、もう、本当にあの、それがね、そういうことは人間を窮屈にするということなんですよね。日柄とか方位を見たりするということは、けれども、そのくらいなことは問題じゃないです、窮屈になるぐらいなことなら。けれども、そのことがご無礼になるのだから。そのことが、難儀の元を作って行くんだから、実を言うたら大変なことなんです、ここをスッキリ分からないと。
 信心しよったっちゃですのや、やっぱ昔から言うちゃることだけは守らにゃちゅうような生き方がね、どのくらい天地に対するご無礼になるか分からんとですよ。ただ窮屈な生活をするというだけでも、困ったことでしょうが。何月何日は日が悪かけんで、旅行には行かれん。何月何日は日がよかけんで、結婚式をせんならん。てんでんもう、黄道吉日というような日にはもう、結婚式場っちゃ、まるでところてんを押し出すようだと言うて、この頃、新聞に書いちゃりました。
 そりゃもう、お供えモンでん何でん、みんな同じもの。何十組したっちゃ同じもん。そして、ゴニャゴニャ言わっしゃってから、祓いを受けて、盃頂いて、もうさあ、後がつかえとるから急いで下さいちゅうなことなんです。まあ、それから、また今度は料亭の方が、今度はこんどる。
 あれは、この頃どなたでしたか。昼頃帰って来れるとが、夕方になって、料亭の方がこんどったから。それが閉まらにゃこっちゃ出けんもん。そういう窮屈な生活は、だから、皆が一番悪日と言いよるような日にするなら、それこそ、神社仏閣で結婚式をしてもです、ガランとしとるけん、念入れてしてもらう。料亭なんかは、もう、そりゃサービスが良かろうと思う、ガランとしとるから。ね。
 だから、わざわざそうせろという訳じゃないけれどです、そういう窮屈なことをするのは、まあまあ、いいですよ、自分で好きでするとじゃから。ね。けれどもその、窮屈なだけじゃない、そのことが天地に体するところの無礼になっとると教祖は仰っておられる。
 天地に対して無礼いたし、前々のめぐりで難を受けおると仰る。大変なことですよ、ここは。ね。神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、と。こういうな通りでもそうです。たとえお寺さんがあるところであろうが、神社仏閣、その(  )があるところであろうが、お互いの家屋敷であろうが、これは私の屋敷であるとか、これは私の家とかと、こう言うけれどです。ね。管理はさせて頂いておるにしても、本当のことは、言うならば神の地所とこう仰る。
 だから、一切が神様の御物としての頂き方といったような、間違いのない生活が出ける。いわゆる、こういうところにです、いわゆるお互いがどのくらい検討違いな生き方をしておるか分からないわけであります。その検討違いであるということが、天地に対するところの無礼、それが、前々のめぐりで難を受けおるということになる。だから、ここんところまでは、だから、ね。
 天地の親神様のお心を知らず、そのお心に背いた生活をしておる人達に対するところの、言うなら敬称乱打して下さっておるというところでしょう。ね。お互い難儀、幸せになりたい、難儀は嫌だとこう言う。ね。けれどもその、不幸せになるような元、難儀を受けなければならないような元を、このような検討違いの中から、いつの間にか難儀の元を作っておるんだと教えておられる。
 いわゆる、本当なことがここによって分かったわけです。そこで、私どもには日柄もなからなければ方位もない。いつもが、日々が有り難い日として頂けれる、自由(闊達)な生活が出けるようになる。だけではない、天地の大恩が分かり、御恩徳が分かり、天地の心が分かり、ね、天地の心に添うた生き方。
 天地の御恩徳に対して、日々、すべてのことの中に感謝の心を持って生活をさせてもらう、ということになるのですわね。その先が大変なんです、また。今度は、後半のところ。ね。この度、金光大神を差し向け、ね、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす、というところ。
 ここになって来る時に、いわゆる、神様の心中と言うかね、心を吐露しておられる感じがいたします。ね。訳のわからん氏子のことであるから、ね、願う氏子にはまずおかげを授け、とこう仰っておられます。ね。そこには、難しいことを何も仰ってない。それ、いわゆる、どんなに悪人であろうが、どういう風に叶わない生き方をしておろうがです、ね、まず願う氏子におかげを授けて、なるほど、神様じゃなあ、と例えば分からせて。そして、その次に理解申して聞かせ、と仰っておられる。
 私はね、金光様の信心の決め手というのは、この遍だと思うんです。ところが、そのおかげをおかげと言うて、おかげのことだけを、ね、おかげを授けと仰る、そのおかげのところだけを一生、その求め続けて終わるという人もあるんです。理解申して聞かせというところを聞かん、話を聞かん。話を聞きよるけども、聞いただけ、守らない、と。ね。そこにはね、その、氏子上下立つようにいたすという、一番最後のこれは神様のお心であろう、願いであろう。神と氏子が一緒に助かり合うて行こうというところにならんのです、ここが分からんと。理解、こうして御理解を頂いて、そして、その御理解を元にした生活が出ける、と。
 なるほど、今までの生き方が間違っておったと、最近はこう言われるから、その言われる、そのことを中心にした生活にならせてもらう。言うなら、教えを行じ、教えを身に付けて行きながら、おかげを受けて行こうと言う。願う氏子におかげを授け、と。ね。
 だから、まあ、一生懸命願うがええ、分からんから。ね。願って、なるほど、なら、医者の見離した病人も助かる、どうにも出けない問題が解決のおかげになって来る、と。そういうおかげを頂いてです、ね、それこそ夢よもう一度というように、そういうおかげばかりを求めてから信心したもんでは、おかげを頂いたにしてもです、神の願いということになって来ないです。ね。
 そこでね、私は思うのに、理解申して聞かせというところを分からせて頂いて、御理解を頂いて、御理解に基づいた生活をさせてもらう、と。ね。最近で、私がここで申しておりますように、とにかく、この黙って治めるということの素晴らしいこと。ね。一つ、本気でここんところを生活の上に現して行こうじゃないか、と。言うて聞かせたり、して見せたりして分からせるのじゃない。黙って祈って行く、という信心の素晴らしいこと。なるほど、目に余るようなことがありゃ、言いたくもある。ね。
 けれどもその、そこんところをです、ただ神様に打ち向こうて、黙ってそこんところを自分の心の上に頂いて行こうという信心。ね。自分の心の上に頂いて行こうということになったところが、自分というものが分かり出してきた。ね。自分に関係のある、例えば難儀というものが、まるっきり、それは自分のせいであるように信じれれるようになって来た。とても、そこには黙って治める段じゃない。言うどころではない、言えれることは、いや、言えなくなって来る。
 神様にお詫びをして行くより他にないということになって来る。お願いをして、やはりお願いを受けなければならんから、お願いをしておかげを頂く。そこで、最近はそこんところをお願いをする。お願いを一生懸命しなければ、心が治まらない。けれども、お願いをして出たところが右であろうが左であろうが、その時点を、まあ、有り難う頂いて行こう、というわけ。
 願うことも一生懸命願わにゃ、心が治まらん。願ってならんということじゃない、願わなければいけない。ね。そして、願い通りのおかげを、また頂かなければならんけれども、それよりも、もっともっと大事なことは、教えを本当に行じさせて頂いて、教えを守らせて頂いて、そこから頂けるところのおかげは、必ず氏子あってのおかげ、氏子上下立つようにいたすという、末々まで繁盛いたすこと氏子ありての神、神ありての氏子ということになって来る。氏子上下立つようにいたすという、神様のおかげの理想郷というものが、私どもの上に開けて来るわけです。
 神様がおかげを受けてくれ、信心しておかげを受けてくれよというのは、ここんところなん。氏子が本当に幸せになって行くと、助かって行くことがそのまま、神様の助かりになられるということ。昨日、日田の綾部さんがお届けを、もうそれこそ感激いっぱいな面持ちでのお届けでした。本当に親先生が黙って治めよ、黙って治めよと仰るようになる以前から、まあ、そこは綾部さん、言わずにおかげ頂いたが良いということは、その、綾部さんの場合は、最近わたしが言い出した以前から、そのことを御取次させてもらいよった。はあ、言うちゃならん、はあ、言わんがええ。して、お願いして行きなさいという生き方。
 それで、たまたま、なら、言わんで治めるということが、もう、合楽の最高の信心だという風にして言われるようになって、いよいよ、そこんところに磨きをかけて、まあ、みえられた訳です。まあ、そういうことになって来たら、もう本当に言わにゃ、神様は皮肉と言やあ皮肉。もう、言わにゃおられん。もう、本当に言わにゃおられんような事態がね、いろいろ出けて来た。大きな問題が起こって来た。ね。
 けれども、御取次を頂いてお願いはするけれども、それを、なら、自分の生活の上では、言わずに済んできた。そして段々、おかげを頂いて、あれはちょうど年末から正月にかけてでしたでしょうかね、断食修行などをなさった。そして、あの酒屋さんの暮れと言やあ、もうそれこそ、てんやわんやの時ですけれども。正月にかけてね、もう酒屋さんの一番忙しい時にです、ね、本当にこの、ものが言えないような、ちょっと、まあ、病気と言やあ病気ですね、神様の不思議なそういう働きが現れて来た。だから、もう、ものが言われんから、ニコニコ笑うとくより他にはしょうない。
 そして、その後に分からせて頂いたことは、酒屋の一番忙しい、ものを言うなら言い続けとかにゃならんごたる時にです、ものを言わんで、その年末から正月にかけて過ごせたということがね、もう、これは親先生、ものを言わんでも済みますという、いわば、やや確信に似たものが出けて来たんです。
 私は神様のその素晴らしい、その時分の演出のことを思うて、今でも思うて、本当に有り難いなあ、と思うんです。ね。実際にものが言えなくなった。娘さんが泣いてお願いに来た。お母さんがものが出らんようになったち言うてから、お願いに来ました。ね。お母さんの言うことは、どげなこってん聞きますけん、お母さんがものが出るようにお願いして下さいと言うて、もう、それこそ子供がそげん言うてお届けに来たんですよ。だから、今まで言うことを聞きよらじゃった子供がです、お母さんの言うことは聞きますから、どうぞお母さんがものが出るように。
 そして、年末から正月にかけて、一番、言うならものも言わなければならん時に言わんで済んだ。言うなら、んなら、私がここで死んでもです、ね、店は立つという確信がだんだん出けて来たんです。私が、さあ、こうしなさい、こうしなさいと采配を振らなくたってです、神様のおかげさえ頂いて行きゃあ、おかげが頂けるというような確信的なものが、だんだん出けて来たです。ね。
 その(後?)からですね、ここで、あの、いわゆる、さんずいへんに無口という、いわゆる言わんで、自然に起きたこと、自然に起きて来るその事態をです、それを有り難く受けて行くということ。そして、言うちゃならん、言うちゃならん、黙って治まって行くことの素晴らしい体験を受けよという、これが最近で言う、合楽の信心の最高のところだ、と。
 しかも、この信心は我情我欲を離れて行くという、真の道におることが分かる、御神徳の中にあることが分かるほどしの信心に繋がるんだ、と最近は頂いておる訳ですよね、黙って治めるということは。いわゆる、お道の信心で一番、あの、有り難いのは御神徳の中に生かされてあることの喜びが分かるということ。ね。さっき申しますように、神様の御恩徳が分かる、話を聞きゃ、なるほど水一掬いでも神様のお恵みのものであることが分かってもです、頭で分かっただけで心からお礼が出らないのです。ね。
 ところがです、ね、我情我欲を離れて行く、いわゆる、黙って治めるといったような信心の体験が段々積んで行きよると、もう、我情は言うことは馬鹿らしか、我欲をしちゃいよいよ馬鹿らしかということになるのですよ。だから、わが身は神徳の中に生かされてあるという、本当の日々を、どちらを見ても神様のお働き、神様のご恩徳の中にあることの実感が湧いて来る。だから、お礼を申し上げることばっかりの生活が出けるようになって来るんです。という言葉で、最近は言われておる訳です、これをね。
 そこで、どういうことになるでしょうか。ね。なるほど、無口で治めよと仰るから、それを本気で言うならば真剣にそのことに取り組ませて頂いて、おかげを頂いておりましたら、親先生、最近のいわゆる(丸亀?)のお店の中にね、もうそれこそ、もうそれは不思議でたまらん働きが起きて来たと言うのである。ね。
 第一、店の人達がですね、朝のやはり沢山な(周囲?)の方達がおりますのに、もう、それこそルーズなことであった。ね。そんなことでどうするか、と言うておる。ね。時間にはキチッと来てもらわにゃ、といくら言うても言うても、やはり同じようなことであった。
 けれども、言わんでということになって来たところが、最近は皆がね、三十分ずつぐらい早く来るようになったっちゅうです。これだけでも、大変なことです。とても、言わんで治めるということの素晴らしいこと。第一、一番嬉しいことは、長男が早起きを、店のモンが来る前に起きること。
 そして、今まではそれこそルーズにしておった、小屋の中まで朝の内に一遍通りまわって、いわゆる店の(みかじめ?)をちゃんと。ね。店主としての、その、そういう働きが出けるようになった。そこで、もう店の雰囲気が全部変わってしまったというような感じが、現在の綾部商店だと、こう言うておられます。
 もう、本当に言わんで治めるということの素晴らしいこと。本当に有り難いことだと、こう言うておられますがです、ね、そういうおかげでなからなければです、いけないと今日、私が言っておるわけなんです。お願いをして、願う氏子におかげを授けと仰るから、願えばおかげも下さるです。けれども、それが一生続いたところで、それは何もならんということ。
 まず、私は前半に申しましたようにです、検討違いな生き方からです、本当にお道の信心によるところの生活態度というものに改めさせて頂き、検討違いではない、道理に合うた生き方をさせて頂くということと同時に、ね、なら、最近ここで教えの中心になっておるところの黙って治めるということの徹底です。ね。
 そこから生まれて来るところの、とても言うて聞かせたりして、見せたりで出けることではないことがです、しかも、店全体の上に新しい新風とでも申しますかね、新しい風が綾部商店の中に出けて来たと言うのである。しかも、願いに願っておる、その長男のいわば改まりのその商売に向かう態度というものがです、親としてこんなに嬉しいことはないほどになって来た。
 一番番頭としておられた人なんかは、もう、店を止めると言うておったのがです、止める段どこじゃない、それから一緒に、その主人と一緒にね、ご長男と一緒に話し合って、もう色々と、その店のことの言うなら生き生きとした話し合いが出けるようになって行った。言うなら、ここで言うならば信心の共励ですたい。言うなら、どういう風にしたら商売が生き生きになって来るかというような雰囲気が見えて来るようになるんです。もう、それこそ天地がひっくり返るような、いわば働きになって来たことなんです。
 その中心であるところの、んなら、お母さんの綾部さんがです、ね、それはもう、言わないことは苦しいことでもあったでしょうけれども、言うちゃ馬鹿らしかということが段々分かって来て、ね、その言わんで治めることの素晴らしい体験が生まれて来るから、次の教えにもまた取り組むところの楽しみが出けて来るじゃないですか。だから、そういう風にして教えをです、行ずることの楽しみというものに、そういう生き生きとしたおかげが伴うて来るのですから、そのおかげがどういうおかげかと言うと、氏子、ね、上下立つようにいたすとか、ね、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子というような、ね、おかげになり、しかもそれが、ね、上下立つよう、上下立つようにと言うは、神も助かり氏子も立ち行くという世界なんです。金光教の信心の一番の神の願いである、私共もだから、神の願いを願いとしなければならんということは、そこなんです。
 私が助かりたい、けれども、ただお願いをして助かるのじゃない、教えを行じて助かるのだ。ね。そういう助かり方の中には必ずです、上下立つようなおかげになって、いわゆる、導いて下さるということなんです。ね。おかげを受けるということも大事。けれどもね、教えを行ずるということは、もっと大事ということが分かります。しかも、その教えを行ずるということはです、それこそね、まあ、綾部さんの例をとりましたようにです、とても、ね、言うて聞かせたり、言うなら教育をしてから出来ることではないということ。ね。言うなら、自発的にです、そういう、店の中に働きが生まれて来たという、銘々の上に。
 ね、素晴らしいことでしょうが。今般、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、ね、理解申して聞かせと、こう仰る。ね。おかげを頂きながら、いわゆる理解を理解としてです、御教えを御教えとして頂いて、その御教えを、それこそ本気で取り組む。
 昨日、ある方がちょっと家庭の、家庭問題。親子の色んな問題で、具合良う行ってない。一生懸命、信心なさっておられる。それをお願いさせて頂いたら、あの、鹿の角ですね、あの、がこう、刀の木が作ってありましょう。それが、この角ということを、お互いが角を突き合わせとるちゅうことじゃろうと思いましたです。(何?)ところが、その、刀がですね、片一方んとにはかかってない訳です、それで、(ポンと?)だけかかってから。ね。だから、刀ということは、これは真剣ということだと思いました。
 真剣にお参りしよるつもりですて、やはり。ね。月の内は、やっぱ20日ぐらい参って来ます、遠い遠方から。ですから、真剣に信心はしよるつもりなんだけれども、片一方んかかってないわけです。だから、現在真剣と思うておるその真剣を、もういっちょ、見直さなければいけない。そして、どこに真剣に行く、拝むことやらお願いをすることだけに真剣になるじゃなくてです、その拝むことやらだから、お願いすることには真剣だ、片一方ん方だけ。
 ところが、真剣にそれを行ずるということに真剣じゃないわけです。だから、こげんなっとるけん、角を突き合わせとる。鹿の角でこうやって頂いた。で、刀がこうやって片一方で取っちゃる。ね。だからその、真剣にお参りもして来よる、お話も頂きよるけれども、そのお話をです、例えば守ることにです、例えば、なら綾部さんじゃないけれども、本気で守ろうということになったらです、神様がある意味合いでは病気させてからでもですね、分からせようとなさるのですよ。ね。
 ですから、ね、お互いのところもです、はあ、こうして毎朝お参りをするということは、真剣にならなければ、お参りが出けるこっじゃありませんもん。けれども、なら、もういっちょの真剣に頂いた御教えを、また真剣に今日一日の生活の上に守って行こうということにも真剣にならなければ、こう、釣り合うたことのおかげになって来ないんだということです。
 そう言われてみりゃ、もう先生、そうどこじゃございませんて。ね。そんならアンタ、親ばどうこう言うこっじゃなかじゃないの。んなら、アンタが今日からそのことに行ずりさえすんなら、おかげになるのじゃん。とにかく、(こっとるというに?)行きよったっじゃから。ね。
 だから、ここんところで本気で参ることにも、お話を聞くことにもじゃけれども、その聞いたお話を本気で、一言でも良いから、それに本気で取り組んで、それを行じ抜かせて頂くということにも真剣にならなければならないと言うて、まあ、御取次をさせて頂いたことでした。ね。
 今日は、御理解3節を、まあ、そのような角度から頂いたわけですね。前半後半を分けて、ね、天地の親神様の言うならお心が前半に出ており、後半のところは、ね、いよいよ願って頂くおかげということよりか、守って頂くおかげということのおかげでなからなければ、ね、氏子上下立つようにいたすと仰るような、神様も立ち行かれ、私どもも立ち行くといったようなおかげにならないということを申しましたですね。どうぞ。